写真が1830年代に実用化されると、絵画と写真は違うもので、写真は記録に徹するべきだという主張がまかり通るようになります
絵画では画家の主観や絵筆使いで、現実に見えているものがゆがめられるが、写真はそうした画家などの主観や思想が混じりこまない、理想的な記録手段だ。それゆえ、写真は撮影者の主観や思想がなるべく入り込まない撮影手法が正しい
という感じの理屈
彼らは、当時進歩してきたボケなどの、絵画の美術表現手法理論を否定し、ピントは隅々までシャープ、ブレもあってはならないのが、写真の原則だと主張し、多数派を形成します。
ただ、面白いことに初期から、今でいう何枚もの写真から一枚の写真を仕上げる、合成写真 composite photography は、ボケブレほどには批判を受けなかったものの、批判がないという意味ではない .忠実性に写真は最大の利点があるのに、複数のネガを使って合成写真を作るのは、不正直な表現だとか糾弾されていました
“Fading Away” (1858)という、英国のヘンリー・ピーチ・ロビンソンHenry Peach Robinson(9 July 1830, – 21 February 1901)という、当時英国で最も有名な写真家の一人であった人の作品は、
以下のようにこれは5枚のネガから合成して一枚の写真としたもの
合成写真でも、ボケブレは最小限にまで抑えられて、これがよい作品とされたわけです。彼は同時期に有名だった、英国のロマン派の画家、Joseph Mallord William Turner (23 April 1775 – 19 December 1851),の絵画に影響されていますが、ボケ表現の採用は、かなり抑えめにとどめました
ボケやソフトフォーカス的な手法はあまり用いなかったものの、絵画的な写真を目指したということで、19世紀末から、晩年は、ピクトリアリズム(絵画主義)の英国のリーダー格の一人となりました。そう、Henry Peach Robinsonのようなソフト画像を追求しない人も、絵画と写真の架け橋を探っていたので、ピクトリアリズム運動の一人と認知されていてるんです。特に日本で、ピクトリアリズム(絵画主義)がピントがぼやけた作風で、1930年代にはあちこちで流れが消滅とするような解説とかは、狭い意味では間違っていないともいえるが、広い意味では実際は間違い
写真撮影では、一度に何名もの俳優やモデルがいないと、大人数撮影はできませんでしたが、合成写真 composite photography (あるいはCombination printing、photo montage モンタージュ写真)は、一人ずつモデルを丁寧に撮影して、後から合成するやり方で、大きなスタジオセットなどを必要としない利点もありました。
Oscar Gustave Rejlander (19 October 1813 – 18 January 1875)の大作
ボケでの遠近感をあまり用いない、絵画でいうと新古典主義作品と、類似した写真を32枚の分割した写真からモンタージュ合成した作品写真。当時は裸体画は普通であったが、写真でのリアルなヌード、合成写真での創作性の高い絵画的な作品の是非で大きな議論をもたらしたが、the Manchester Art Treasures Exhibitionに1857年に展示された後、当時のイギリスのビクトリア女王は、アルバートAlbert王子へのプレゼントとしてこの写真を購入。
プロ写真家協会は、公式の触媒ではOscar Gustave Rejlanderの合成写真手法を、記録手段である写真への冒涜と、批判することが多かったのですが、私的な晩さん会などの宴会では歓待していたともされ、なかなか複雑な事情もあった模様です
まあ写真は、記録を主な目的とする、あるいは絵筆やペンタブなどと同じ表現の手段という議論は、19世紀からずっと続いている
ピクトリアリズムというと、19世紀末期からの1920年代、ソフトフォーカス技術やソフト印画手法(ピグメント印画法)が売り込まれ、輪郭線をくっきり描かない画家の絵を再現するのにはやった時期の表現手法を指すことが、解説では多かったりするが、狭い意味では正しいといえなくはないものの、実際はその同時期にも、写真家が模範としたのには、いろんな絵画の表現グループがあるので、一概にどれをしてピクトリアリズムの表現というのは本来は間違っていて、写真のほうも、どの作風の画家をまねるかで作風がかわった
さて、とにかく何々主義とか何々画風とか言うのは、画家や写真家に寄生して暮らしているごみ=大学の学者の類の、産業廃棄物評論の、無駄飯の駄文(大学の教員やってると、ネタ本バレバレの三文研究、各種中身は三流の大学の教員の駄文を、「先学」といってやらないといけなくなるが、シンプソン事件の日本の大学教員あほ研究の数々と同じく、当サイトはすべて無視w)かくのには好都合ですけどね。日本の写真における風景論の意味不明議論、コンポラ写真の定義の議論とか、当時の写真雑誌とか今のサイトが、バカにもわかりやすいように、自分の売り込みたい写真表現に名前つけたりw
19世紀の中ごろまで、新しく出てくる画風は、国営のサロンの認可がないと認められないとか、牛耳られたフランス以外では、画家や写真家個人が独自の表現の道を、勝手に切り開くのが普通であり、あまり細かいところまで見て細かく分類するのは、かえって間違いや混乱が生じる原因にもなる。実際、フランスでも、悪の元締めのサロンの権威が下がり、民営化してしまうと、画家たちは自分たちのグループで展覧会などを開いて、勝手に自分たちを売り出せるようになったので、表現の自由性が増え、それ以前の何々主義というレッテル分類は、あまり意味がなくなっていく。
写真を絵画と同じような表現の手法に使うことも、特に画家David Wilkie Wynfield (British, 1837-1887)は、誰から教わらなくても、自分で考えだしていたのは明白だし、同時代のJulia Margaret Cameronは、彼の手法から自分の写真スタイルを学びましたが、David Wilkie Wynfield本人は、写真に関する指導書などは一切残さなかった。
さて、一部の本では、ピクトリアリズム(絵画主義)の提唱者は、英国のピーター・ヘンリー・エマーソン(Peter Henry Emerson (13 May 1856 – 12 May 1936))ということになっていることもあるようです。でも、実際は、似たようなことを考えついていた同時期やそれ以前の時代の人はたくさんおり(彼らの作った写真を見れば明白)、かつ、彼以前にもう著名な風景写真家であった、英国のFrancis Frith(England 1820-1899)は、シャープ至上主義の当時の風景写真の在り方は、アートとしてはよくないとの持論を持っていた。さらに、各地で絵画風の写真を撮影したいと考えた人たちは、地元で個別にサークルや勉強会を作った、それぞれの地域の流れができた、ので、彼が大きな流れを始めた始まりであったとしても、統一指導者ではなかった。
取り立てて、彼が開祖的に扱われるのは、絵画的な表現を写真で再現する、写真を芸術的表現手段として用いることを、写真は記録のための技術的手段で芸術性は絡まないとする意見が多数派のプロ写真協会で、しつこく持論として提唱したことくらい。
この人は、1881年か1882年に、1885年に、イギリスの写真家協会(The Royal Photographic Society of Great Britain)の評議員に選ばれ、外科医をやめて写真家に転向したものの、当時の流行の、隅々までシャープな風景写真を、過剰な嘘くさい、主題が浮き上がらない、見た目との忠実性はないなどとと、疑問を持っていました。
そのためフランスの絵画の表現を写真に持ってこようと、それ以前からごく一部ではやりになっていた(1890-1928年あたりには、アマチュアなども含め、ちょいと世界的にはやった)、解像感のないソフトフォーカス的な描写にも挑戦するものの、彼の目指す風景では、好みに合わずに、ソフトフォーカスを放棄して、目に見えている状態とできるだけ近いナチュラルな風景画を撮ろうとして、以下のような写真を撮っていました。
まあ、このことから、彼は自然主義写真(Naturalism、Naturalistic photography)を提唱したと、同時期のピクトリアリズムPictorialismとは分けて分類されることも多いですが、エマーソンの実際に目に見えている光景を再現するという主張は、18世紀前半のフランスのロマン主義者画家Eugène Delacroix(ウジェーヌ・ドラクロワ; 26 April 1798 – 13 August 1863)が、ダゲレオ式(ダゲレオタイプdaguerréotype=銀板)写真の、異常なシャープさ追求と、ボケを否定する作風は、人工的すぎると評していたのと同じ出発点から来ているので、ピクトリアリズム(絵画主義)と無縁といは言えないです。この時期にはやった、ソフトフォーカスを多用するピクトリアリズム(絵画主義)も、一応試した後に、自分が納得できる部分だけを取り込んだ過程もありますしね。彼は1895年で、写真集の撮影はやめ、小説を書くことに没頭し、写真のほうは趣味となります
エマーソンは、1886年に出版した、Life and Landscape on the Norfolk Broads (1886)は、画家のThomas Frederick Goodallが共著者で、the Norfolk Broadsで写真を撮ろう位と考えていたエマーソンがやってくると、絵を描くために、ここで、住居付きの船に住み着いていた画家のGoodallと知り合いになったことから始まります。
ちなみにGoodallは当時はそこそこ人気画家で
のエマーソンの写真をもとに以下の絵をかいています
Goodallの画風(彼は英国人なので、フランスのように、19世紀までパリの国営サロンが画家の作風を制限するようなことも少なかったので、何々主義派の画家といった、レッテル張りは、フランスほど意味はなかった)は、
と、新写実主義やロマン主義に近いものがあり、印象派のような、現実からすっ飛んだ、人間の内面や夢の世界などを表現した作風とは異なるので、風景などが主体のエマーソンには組みやすかった画家でしょう
とくに、19世紀末期から20世紀初めのピクトリアリズム(絵画主義)人物写真では、以下のフランスの画家Jean-Jacques Henner(5 March 1829 – 23 July 1905)
エマーソン自体も、人物系で特に盛んだった、こうした輪郭と解像感のない絵画風表現にも風景写真で挑戦しましたが、彼の好みではないと、ソフトフォーカス的な写真は風景には向かないと、できるだけ目に見える風景を改変しない自然主義を唱えるようになりますが、一部は、絵画の表現と通じるものが残りました
てなわけで、19世紀末から1920年代末ごろに特に目立った、解像感の少ないソフトフォーカスのような作風の写真以外の、ピントががっちりあっている写真も、絵画の描写の再現を試みている場合は、この時代のピクトリアリズム(絵画主義)の流れの一つといえるわけです
まあ合成写真は、より簡単になったため、今でも以下のように盛んにおこなわれます
ボケブレなどを写真の不完全性とみるのは、特にフランスの写真界で強かった
一方、画家兼業の写真家などの間では、絵画では広く認められるようになったボケの技法を用い、絵画的な写真を製作することも、少数派の間ですが盛んでした。ボケ写真派は、写真以外の芸術家たちには支持されることが多かったので、1860年代の英国のCameronなど美術館が無償でスタジオを提供し、写真家たち以外からは支持されていた人もいます。
またフランスでも、ボケを表現に使うプロ写真家は首都パリには、Charles Nègre(1820 – 1880)など少数存在していました。
異端と批判は強かったですが
英国では、「カロタイプ」(タルボタイプ)という、便利だが、解像度が上がらないため普及しなかった写真技術が1841年に公表されて、イギリスの発明であったことから、フランスより、ソフトフォーカス的な写真には理解が得やすかったのですが、それでもソフトフォーカス、ブレ、ボケは、アマチュアのやることだと攻撃されることが普通でした。
写真家以外の人で、写真を依頼する人は、隅々までシャープな写真で喜んでいる当時の大部分の写真家たちを奇妙な連中と考えている人が珍しくなかった
このあたりのことは、
写真の発明後、長く敵視されていた、ボケやブレ、ソフトフォーカスを使った表現【美術の歴史とボケの歴史】クラインに先駆け、ボケ、ブレを写真表現に取り入れたプロ写真家たち
として記事にしてありますが、写真を絵画的な表現の手段として用いるピクトリアリズム(絵画主義)の活動が始まって20年以上した、1920年代ごろになると、フランスのパリでも多数のボケを表現に生かして人物撮影を行う写真館が多数開業するようになり、ボケを生かしたポートレートが盛んに撮影されます
しかし、写真は、表現手段であると、同時に記録手段という側面があるので、ボケ、は、けしからんという風潮もしつこく残ります。今でも残る長く続いた議論のかけらは、
風景写真は隅々までシャープなのが好ましい?【写真にまつわるニセ科学と怪談に注意】
という議論に、当時の遺産として残されたりしています。*ただし21世紀現在の風景写真では、長時間露光をして、水や、雲をぶらしたり、水などの動きをなだらかに写す、ブレ技法による表現は、普通に行われているので、「ブレ」に関してはご法度ということはないですが。
フランスでも商業写真にブレ、ボケが手法として用いられるようになったのですが、
ほかのジャンルなどでは、まだブレ、ボケ、アレを邪道とする見解が強く残っていました
ストリートスナップ、町の光景やそこで暮らす人々の生活を写真に記録する手法で、20世紀中ごろにはカリスマとして扱われていた、フランスのブレッソン(Henri Cartier-Bresson)は、ボケとブレを写真の記録要素として認める反面、絵画とは異なり、町の様子を忠実に細かく記録することがストリートスナップであると、持論を公表し、彼の意見は当時絶対的な影響力もある+写真が始まったころから、写真の記録に徹するべきで、撮影者の主観が入る手法は極力排除という思想の遺産と交わり、
ストリートスナップは、その時代の都市や人々の記録であるのであるから、撮影者の主観は極力排除するのが正しいと、そもそもブレッソンが、新聞などに売るスクープ報道写真という、記録性が第一の仕事をしたことから写真を始めた、という背景もあって生まれたものでしょう
ただ、1920年代ごろにパリのピクトリアリズム(絵画主義)、Surrealismのサークルのたまり場に、頻繁に通って、それ以降、徴兵や留学などでも中断されたことがありましたが、写真を始める前にはこうした、ようやく少数異端から、少なくともかなりの勢力となっていく、写真を絵画的な表現に使う思想と深くかかわりを持ちます。
という背景から、ブレッソンは、写真を開始して以降、ボケ、ブレの要素は否定していませんでした。1920年代後半から、小型のライカやローライフレックスの、ライカサイズ、今でいうフルサイズカメラが登場し、ブレッソンもライカを持って撮影を始めましたが、初期のこうした当時は小型(今はデカオモフルサイズ)カメラに開発されたフィルムの解像度は芳しくなく、また新聞などに写真を載せる、廉価な大量印刷技術ができたものの、新聞雑誌の印刷水準は、使う紙の品質も低いことから、結果として出来上がる写真はなんかぶれたようなボケたような写真が多くなり、そういった印刷写真を見慣れた人たちは、以前の世代の人たちより、ボケやブレ、ソフトフォーカスに寛容になったとも言えます。
というわけで、ブレッソンは、前後のボケ、さらにブレをうまく生かした構図を写真の主役を引き出すため用い、アメリカのロバート・キャパも、そういったボケ、ブレを作画に生かすことに挑戦し続けました。
1932年のブレッソンの代表作
Henri Cartier-Bresson: Behind the Gare Saint-Lazare, Pont de l’Europe, Paris
https://www.icp.org/browse/archive/objects/behind-the-gare-saint-lazare-pont-de-leurope-paris
水たまりを避け、飛び歩く人物、ぶれてる、ですがそのことで動きを表現できた
**引用の名目で小さく掲載するのは特に問題がないとも思われますが、当サイトにはデーターアップせず
1961年のブレッソンの歩く人間をブレさせて、動きを表現した写真
ただ、彼は、彼が行く先の土地の人々や、町の様子を、自分の主観なしで見る人に伝えるために、自分が見た光景を編集するような写真の撮影を戒めました。これは旅行などでのストリートスナップは、報道などでの記録性が大事だと考えていたからでしょう。ボケブレを表現に生かす写真家たちと親交を深めながらも、彼の撮影するストリートフォトは、記録でもあることが優先するので、撮影者の主観は排除する、記録主義を重視すべきだと考えていたのかも?
そんななか、アメリカのウィリアム・クラインは、移民や労働者のあふれるニューヨークという都市特有の空気を記録するために、アレ、ブレも写真の表現とすることを手掛けます。ニューヨークの街の人々のストリートスナップを、ぼかし、ぶらし、荒れた粒子で表現する写真集を発売し、反響を呼びます。1950年代になると、フランスやイギリスなど欧州では、写真のブレ、アレ、ボケはそれはそれで表現としてありということも、ある程度写真家プロ集団協会にも認められ始めていましたが、米国は20世紀中ごろも、19世紀のフランスのように、そうした写真は邪道とする文化がプロ写真家協会などの間で根強かった
当時のストリートスナップでは異端であった広角レンズの使用など、常識をできるだけ無視した撮影が行われました。
感性の赴くままに写真を撮影することも、あるいは正解の場合もある:ウィリアム・クラインWilliam Klein ブレ・ボケ・アレを写真表現として確立したアメリカの写真家
当時のアメリカは、19世紀のフランスのようなボケ、あれなどの技術的未熟さは写真には有害であるという文化が1950年代もしつこく残っており、町のスナップ写真は、町と町の人々の記録なのだから、ピントは全域あってなければならず、ぶれてもならず、粒子をわざと荒らすなどあってはならないという記録主義が支配する世界でしたが、クラインはこれを完全に無視して、ブレやボケも表現の一つだということを、ようやく邪道ではなく、正当な表現手法として、アメリカでも認知させることに成功します
写真は記録の道具でもあり、表現の道具にも使えることから、ブレやボケは正しい表現かという神学論争が長く続いたわけです 現在も風景写真は隅々シャープでないといけないとか言って、写真=記録主義原理主義者の遺産があちこち残っていますが。
日本では、1930年代になっても、写真というものは記録性を重視するもので、絵画のような表現の手法として用いるのは、邪道、もしくはアマチュアの活動で、プロは記録に徹するとかいう意味不明なカルトが、その後も長く残ります
その辺は下の記事
日本では、芸術としての写真を追求する人は、プロではなく、アマチュア写真家だとする風潮が1980年代ごろまであった:日本のブレ、アレ、ボケ表現の初期
1967年ごろから、日本でブレ、ボケ、を表現に生かそうと活動した、中平卓馬は、主にアメリカのクラインのボケブレ写真を自分の作風に使用と、森山大道らと、毎日カメラ山岸の企画盛り上げなどもあって邁進します。
でも、英国やフランスにおける、画家と写真家の相互の影響と絵画のような写真をとりたいという中で生まれてきた、1840年から始まった画家と写真家の交流などによる、ピントをずらしたり、ボケさせたり、ブレさせることによる、絵画表現と手法を写真に持ち込む流れが継続して、19世紀末期から20世紀初頭のピクトリアリズム(絵画主義)と大きくなり、その後も絵画の表現を写真にもって来ることを考えた歴史の大きな流れは、大きな根本の部分ではずっと継続してきたことはほぼ理解していた可能性は低い。ピクトリアリズム(絵画主義)は1920年ごろまでに衰退とする人もいますが、ボケ、アレソフトフォーカスを写真の表現として市民権を得させるという流れでは19世紀中ごろの大昔から継続していた流れで、1920年代からは、一番批判が多かったフランスでも首都パリで堂々、それ以前はプロ写真家の批判の的だった、ボケとソフトフォーカスを売りにした商業写真スタジオが建てられた時点で、普及運動の必要性はなくなっていたのです。
森山大道のように、ブレボケ写真を、ほとんど20世紀半ばのクラインに影響されて始めたため、西洋写真でボケとブレが普及しだした長い歴史とその理由がわからないままでいた可能性はあります。
中平に至っては、結局は写真は記録に徹しなければならないという、18世紀からのカルト文化の原則が正しい、ボケ、ブレは真実をゆがめてしまうと、その後いったんは、ボケ、ぶれ表現から離れてしまいます。この背景には、彼らの活動に影響され、当時の国鉄(当時は当然役所だった)のディスカバリージャパンのポスターの広告写真は、堂々ブレやボケを前面に押し出した写真が採用されるようになっていき、国家権力や商業資本の、手段として認知されたボケやブレは、写真の伝える意味をゆがめる危険な存在と、中平が自分で支援にかかわった、沖縄の殺人容疑裁判の経験から得たためともいわれます。
ただし、ウィリアム・クラインは、ボケやブレのない写真というのは、実際に見えている世界を表現していない、それはそれで作り物の世界だということに気が付かないのか?と、1950年代半ばからの彼の活動開始動機を説明していますが(感性の赴くままに写真を撮影することも、あるいは正解の場合もある:ウィリアム・クラインWilliam Klein ブレ・ボケ・アレを写真表現として確立したアメリカの写真家)
海外情報が限られていた当時は、中平はそこまでの情報は得ていなかったのでしょう。また中平卓馬に関しては、ボケ、ブレは当然という解説を行った直後から、立場を180度回転させて否定派に入ったことから(この時中平は、言葉の主張を支える補助資料として写真はあるので、写真には撮影者の主観は入ってはならないといいだす)、
ボケ、ブレ、アレ、を本心では肯定的ではなく、
反権力表現としていて考えて導入したと思われます。
彼と森山らが火付け役となったブレ、アレ、ボケがあっという間に、国鉄などの商業で利用されると、権力の道具の、ボケ、ブレ、アレになってしまったと、直ちに否定発言を繰り返したことである程度明らかかも。
中平は18世紀から始まっている、絵画手法の発展と同じく写真もあるべきとする、主に写真海外のサークルで強かった流れと、写真は全面忠実シャープが優先とする写真家たちの主流グループとの対立の歴史とは、まったく異なる、反権力表現手法として、ボケブレ写真に注目したものの、権力側が好んでその手法を使いだしたので、ボケブレ否定を直ちに始めることになったともいえるかも?
さて、1950年中ごろから、クラインは、人間が見ている光景には、ブレも、ボケもあるし、人間の目に見えている。手を振ったらぶれて見えるだろ?それを記録しない「ブレもボケもないシャープな」写真が、現実の再現なのかね?
と、ブレもボケもない世界は、人間は実際認知もしていないのに、写真ではブレもボケもない世界が正しいというのは間違っていると、ぶれた写真は記録ではないと、19世紀から言われてきたことの非科学性を指摘してたんですね
日本の写真家渡辺さとるの解説動画*当時まだ根強かった。ボケブレアレ否定の背景については詳しくない あと、写真集の写真をあまり全部見せるようなやり方は、場合によっては(相手側カメラマンの感じ取りかた)、特にフェアユースが一般的に認められていない日本では、著作権侵害と、裁判になる場合もあるので注意
中平卓馬、森山大道らが始めたボケブレ荒れをテーマにした同人誌の話
写真の表現の歴史では
いつも、
絵画のような撮影者の表現の手段としての写真
記録の手段としての写真
と双方の立場からくる論争が起き、多くの場合では記録の手段としての写真の原則からものを考える人たちが優勢なことが多く
現在でも風景写真においては、隅々までシャープなパンフォーカス原則信仰、過剰レタッチの是非の議論など、写真家=カメラマンの主観はできるだけはいらない写真がよいとされた時代の思想から、派生したと思われる論争が起きたりするわけです
“She Never Told Her Love”
Henry Peach Robinson British 1857
The Metropolitan Museum of Art
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/283090
Fading Away, from “Illustrated Times”
After Henry Peach Robinson British October 5, 1858
The Metropolitan Museum of Art
https://www.metmuseum.org/art/collection/search/742405
写真の歴史ヘリオグラフィーから始まった現存最古の風景写真:写真が大きく普及するのは、ダゲレオタイプ(銀板写真法)の発明から
ウィリアム・クラインWilliam Klein ストリート写真の森山大道に影響を与えた人【アレ、ブレ、ボケを作品に】
スローシンクロ(低速シャッターと発光時間の短いストロボの同時利用)で、水上ボートなどの動きのダイナミックな動きを表現【Youtubeで学べる撮影テクニック】ブレを表現に活かす
画家・エドガー・ドガEdgar Degas(1834年7月19日 – 1917年9月27日)と写真活動【印象派の画家と写真におけるボケ、ブレ、アレの歴史】
日本と欧米の写真写真のボケ文化:欧米は、初期から絵画風の写真を撮る手段の一つとして「ボケ」があり、日本はレンズを売るための手段としてのボケ描写のこだわりを広めた【写真にまつわる怖いカルト神話とボケ】
風景写真:隅々までシャープなものが好ましいカルトの歴史:賢者=芸術家は、細かい不必要なものは解像させないという美術理論は17世紀には成立していたのに、その理論に歯向かったプロ写真家たち